5000匹の氷漬けの魚を「かわいそう」と胸をはっていえる釣り人はいるのだろうか

 

「5000匹の魚と遊べるスケートリンク!」で物議を醸した某テーマパークの件は、国内のみならず世界にも飛び火した。

いち釣り人としてこの問題に触れないわけにもいかない。

常日頃から自然と魚に対する感謝を忘れないアングラー達なら、この問題に真っ向から論じることができるはず。

 

──でも意外と”触れた”人はみないですね。「かわいそう」っていう人はいるけど。

でもそれって考えることを放棄してませんかね?

魚を持って「この魚に出会えたフィールドに感謝!」ってしている人こそ、この問題には向き合って欲しいと思っていたのですが……。

 

私としては、釣りをしている人がこれに「かわいそう」という資格はないと考えます。

 

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どの視点で何をもって「残酷」とするか

 

http://diamond.jp/articles/-/110052

ことの発端は北九州市のテーマパーク『スペースワールド』の企画した「氷の水族館」から。

5000匹のお魚さんと戯れることのできるスケートリンクは、語感からしても「楽しそう」と感じるかと思う。

集客にも成功し、企画の滑り出しとしては成功を収めたのだが──

 

軽率だった公式の投稿が、誤解をまねくことで騒動に発展する。

 

私は「リンクの内側に水槽を並べる」か、「水槽の上に氷を張る」かの二種類と思っていた。

まさか氷漬けで埋め込むとはミジンコほど思っておらず、それなりに衝撃を受けた。

でもこれだけで顔真っ赤にして怒る人も少ないだろう。

 

炎上した要因となったのは、公式がfacebookに投稿した一文である。

 

「おっ・おっ・・・溺れる・・・くっ・くっ・苦しい・・・」

 

そりゃ荒れるわ。

 

これで炎上すると予測できない投稿側のおつむがハッピーと思うけれど……

批判が拡散され、国内だけでなく国外でも話題になったものだから、ネットの力は恐ろしい。

この事態を収束させるために中止を余儀なくされたのだが……本当にそれでよかったのか? と。

 

ご当地ヒーローのキタキュウマンが民衆に問いかける生命の倫理

 

ヒーローは正義の味方といわれるが、人を導く存在を指すこともある。

キタキュウマンがいっていることを簡素化すると、「叩く材料をみつけて一方的になじるのは正義なの?」的な話。

それは視点によってイジメに見えるし、「価値観(主観)の押し付けは議論ではなく、ありがたくない説教にしかならない」わけである。

 

日本人はよっぽど不満が溜まっているのか、アラを見つけたら「それきた!」と袋叩きにする。

漢字の誤読やカップラーメンの値段をいえないくらいで、馬鹿げた理由から一国の首相を辞任に追い込むハッピーな国である。

じゃあ君、今まで一度も間違えたことないの? って話。

 

普段物静かでも「匿名であるネットなら何いってもいい」、そう考えているのも日本の伝統芸ともいえる。

該当ツイートに対するリプライ(返信)を覗いてもらえばわかるとおり、「生命を冒涜した企画を擁護するヒーローに失望した」ような内容が多い。

論点そこじゃないだろ、と。

 

氷漬けの魚はさかなクンもキレるレベルだったようで、その観点も識者として間違っていない。

けれど釈迦も悩んだ生命論で、ここぞとばかりに価値観だけでスペースワールドを叩くのは「さすがに言い過ぎではないか?」という意見も多い。

 

「議論するのはそこじゃないだろう? どうすればよかったのか考えて、次に活かそう!」

その考えが少ないから、新技術は産まれにくいし、政治は停滞を続けるだけ。

一方的な「ダメ!」は何も産まないが、「こうすれば良かったのでは?」という意見こそ未来につながっていくのに……。

 

釣り人の魚や自然に対する生命の倫理観とは?

 

食事の前に「いただきます」というのは──

「私が生きるために貴方の生命を申し訳ありませんが、ありがたく頂戴いたします」……というのが本当の由来。

これは仏教の五戒にある『不殺生戒(ふせっしょうかい)』から、みだりに生命を奪ってはならない教えから来たものである。

 

暴論になるが、『るろうに剣心』の剣心は、人を切れない”逆刃刀”で「不殺(ころさず)」を守っている。

──のだが、切れなくても殴れるこれで、向かってくる敵から誰かを守るためにボコるのである。

人の目によってはおかしく映るかもしれない。けれど、不殺生戒に繋がる”不殺”は守っているので論破するのは難しい。

 

生命を頂く行為は、「人は何故殺してはいけないのか?」の問いみたいに難しい問題。

「そうしてはいけないから」と説明はできるけれど、「何故そうしてはいけないの?」といわれると口をつぐむでしょう?

それを理論的に説明しているのが宗教だったり、哲学だったりします。

 

「いただきます」を”恥ずかしい行為”と捉える人も少なからず存在する。

30人が一斉に食事をはじめて、その中でただ1人が「いただきます」といえば、好奇の目にさらされるだろう。

この「生命をいただく行為」は宗教を問わずそこで教えられるものだが、宗教の自由で”無宗教”が多い日本においては、”躾の範疇”とされている。

 

それを知らないのは、教えられていないからか、知る必要がない生活だったから──かもしれない。

『魚釣り』は少なからず自然に悪影響を与えるし、魚の生命を奪う可能性がある。

釣り人の目線、生命の価値観については正直”おもしろいな”って感じています。

 

例えば大きい魚1匹を写真にとると「すごい!」っていわれるけど、小さい魚1匹を「持ち帰りました」っていうと叩かれる。

また小さい魚を100匹釣ると「すごい!」っていうけど、人によっては「乱獲じゃねーか」と叩かれる。

卵を持つ魚は未来の資源を増やしてくれるのに、産卵期で荒食いするといって釣り対象となる(まあこれは漁業も該当する)

 

これらは幾度となく見た事例で、”マナーとしてなるべく叩かれない方向で”考えがまとまっている──はず。

それでも意見がバラバラになるのは、まさに価値観の違いからくる問題

何をもって「かわいそう」とうつり、また「残酷」として捉えているのか。

 

やらない人からすれば「生命あるものを道具でイジメているだけ」にうつるし、それに対する答えが、「だってそれが釣りだから(真顔)」で済まされる。

釣り人は自然と魚をはなはだ下に見過ぎだと思っている。

 

「じゃあお前はどうなの?」っていわれるだろうので

 

とは確実に感じるでしょうから、私の取り組みをちょっといわせてもらいますと──

「規則やマナーといわれている全てを守ると、魚釣りって窮屈すぎる遊びじゃない?」と感じているわけ。

それを実際にやっているから、余計そう感じます。

 

・根掛かりして仕掛けやルアーを海に残すのは嫌だから、そういう釣りをしないようにするためサーフに行くし、ラインを無駄に細くせず切れにくくして、わざわざ引っかかりにいくように底をとらない。

・家庭で数日おかずになればいいので、必要以上に魚を釣らないし持ち帰らない。

・ちゃんとした駐車場に停めるし、立入禁止や私有地へは近づかない。

・ゴミはラインの切れ端にいたるまで持ち帰るし、なるべく出ないよう家で準備する過程で剥いておく。目についたゴミは半ギレしながらも拾う。

・リリースサイズは釣り人の”俺ルール”ではなく漁業権に則る。

・釣れた魚は持ち帰るものだけ写真にとる(ちんまいのをいちいち撮ってるのが面倒)

 

……とまぁ、まだあるけどキリがない。

”これだけ”守っているだけでも、周りはかなーり雑な釣り人が多いことが目についてきます。

100%のアングラーが規則やマナーを守っていれば、釣り場が閉鎖されることもおそらくなかったでしょう。

 

人が集まりやすい場所ほどそれは露呈されるので、価値観の違いは様々な問題を抱えているわけです。

マナーなんて皆が守っていれば、その概念すら生まれないものですよ。

魚を釣ることに賭けている人ほど、それは守られていないのでは?

 

 

「生命をいただく」の「いただきます」が薄まっている国

 

仏教のみならず、キリスト教やイスラム教も同じニュアンスで、「神の恵み(思し召し)において感謝し食事をはじめます」と祈りを捧げて食事をする。

命を頂戴するのだから、「私は貴方によって生かされています」「貴方のもとで生かされています」と感謝するのが、食事の前に拝んだり祈ったりする本当の理由。

 

現在では個人が自然から採取することも少なくなったため、生産者への感謝として捉えている姿も少なくないし、またそれも教えとして間違っていない。

ただ何も考えずいただくことは、”奪う”ことと同義であることを忘れてはいけない。

 

釣り人が魚に対する感謝って「釣れてくれてありがとう」の感謝でしょう?

バス持ちが「なんで釣り人って顎クイしてんの?」とちゃかされているのは笑ったけど……魚との記念撮影なんて自撮りみたいになっているし、一般から見れば、かなり気持ち悪く映っていると思いますよ。

釣り人同士だから許容されている価値観が合致しているだけで、誇らしくやることでも、いうことでもないと私は思っている。

 

私は”魚を釣ることだけに固執した釣り人は嫌い”なのです。

それ以外に何か影響が起きそうなことを自分で考えることができるのならば、マナーを口うるさくいわなくても、「それはいけないこと」とわかるだろうし、教えていくこともできるのではないかと。

 

 

氷漬けになった5000匹を「かわいそう」という釣り人は魚を下に見ている

 

「それをかわいそうというのであれば、並べて写真に撮られた魚も”かわいそう”というべきでは?」

路上に放置された外道達は、無益な殺生によるものなので「かわいそう」と呼ぶに値するかもですが──『今まで本当に無益な殺生を魚釣りでしていなかったか?』といわれると、私の答えは「ごめんなさいしていませんでした」です。

でも今は我が身を直したので、おかげさまで窮屈な釣りをしています。

 

それに違和感を感じた理由はブログをはじめてから。それと他人のフリを見て違和感を感じたから。

「これは文句をいわれるな」という内容はわかるし、炎上はやろうとすれば意図的に起こせるのですよ。

知らずに燃えたのなら、ただの天然ですし、ある意味才能です。

 

別に無理して規則やマナーを守らなくてもいいと思いますよ?

ただそれは、自分のみならず他の釣り人まで首を締める結果となるだけです。釣り場が閉鎖して怒る人って、ほとんど”守っていない側”の人だけでしょ。

「他の奴らもやっている!」と反論するのは、ただの言い訳じゃないですかね。

 

スペースワールドの氷漬けになったお魚さんの補足

 

あれに「かわいそう」という人は、ここまで読む前にブラウザバックして”おこ”だろうし、あえて見ないだろう部分に擁護を入れときます。

 

『氷漬けにした魚を”生きたまま”そうした──』と捉える人が多いけれど、市場には出せないような規格外の魚を譲り受けただけで、すでに息絶えた魚なので、『残酷』という意見はどうかな、と感じる。

それは廃棄されゆく……生命や食品としても”無駄”となるより、有効な手段だと思いますけどね。

むしろ生きたままとか、それを確保するのも並べるのにも面倒すぎるでしょうに。

 

ぜひ下のまとめを最後まで読んでいただきたい。

 

スペースワールドの魚を埋め込んだスケートリンクと、すしざんまいのさっぽろ雪まつりの展示の違いは何か
まとめました。 更新日:11月28日16時45分

 

「死骸の上を滑るのは気持ち悪い」

「下を見て滑るだろうから衝突の危険性がある」

「食べ物で遊ぶな」

 

などなど、多種多様のありがたい意見がありますね。

 

「模型やイラストならばどうだったのだろう…?」を考えると、きっとこうなるでしょう。

「リアルさがない」「簡素でつまらない」とかいうのではないですかね。

現代アートにン千万払う人もいれば、ただの落書きに見える人もいるわけで、自分とは違う価値観を持つ人は確実にいるし、視野が狭ければその人を理解することも無理な話。

 

お互いが妥協できる終着点なんて、何の面白みもない駄作じゃないかな。

剥製や標本を論点にしている人もいるけど、もしそれだったとしても「死骸の上を滑るのは気持ち悪い」って答えは出るだろうし、結果は同じじゃないですかね。

「このあとスタッフが美味しく頂きます」としても、なんだかんだで叩かれるでしょう。

 

http://www.okamotoseihyo.jp/art_result/uminoichi/

 

このように氷漬けにした板として、壁に展示する形であれば、収まっていたのではないかと。

でもそれだと壁際で滑る──というか眺めていくだけになるじゃない? それならリンク上でやる必要もない。

「リンク上に氷柱を並べると邪魔だし、滑りながら見るとなれば……埋めるよな」……ってなるわな。

 

批判を受けたけど、この発想自体は悪いとは思わない。

対案を考えるほどショボくなるでしょう。

 

この発想を潰していく考えこそ成長を阻害するし、日本の悪いクセ。

「そんなの無理だろ…」といわれる企画や発明ほど、のちに成功を収めていたりします。

無理の中にこそ答えはあるものですよ。

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海釣りがメインで、たまに淡水もやります。2018年は身近な浜名湖で、ポイントを転々と釣り歩いてマッピングしたい所存。

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